なぜ、シンポジウムか

なぜ、シンポジウムか

福 島の原発事故発生の当初、日本と海外のニュースを比較して明白になったことは、そのどちらからも正確な情報を入手しづらいということでした。アメリカ側の メディアはーあの由緒あるニューヨーク・タイムズでさえー大災害というアングルでニュースを盛り上げているように見え、日本側メディアは政府と東電から出 る見解をそのまま繰り返していました。一方原発にまつわる問題に関して日頃から虚偽報告を受けている、真実が隠蔽されていると不信感を抱いている一般庶民 は、デマやパニックで不完全な情報のギャップを埋めようとしました。

私たちはこれから長い間、今回の原発危機がもたらした問題に関わって生 きて行かなければなりません。原子力エネルギーが、いかに危険なテクノロジーであり、加えて原発事故は回避できないのだということを、原子力エネルギーに 依存し続ける限り、私たちは認識する必要があると思います。この認識こそが出発点なのです。その出発点から、次に何をすべきか、どこへ向かうべきなのか は、自ずと見えてくるでしょう。

Oberlin シンポジウムの一番の重要性は、フクシマ以前からこの分野での研究を重ねてきている研究者、専門家達の知識にアクセスする場を提供することにあると思って います。福島県のある小学校教師坂内智之さんは生徒達にこう説明しています。「私たちは、これからずっと長い年月、放射線と共に暮らしていかなければなり ません。 だから放射線について精一杯学ばなくてはいけません–」

なぜ、アート・エキジビットか

東日本大震災の1周年に向けて、シンポジウムを開催する計画をし始めた当初から、アート・エキジビションを同時開催することは、疑うべくもない方針でした。福島原発の危機に伴って、私達の前には今膨大な量の不可知要素を内包した問題が立ちはだかっています—すなわち、それは物理学、生物学、地質学からだけでは知り得ない不可知要素であり、また、政府や原子力産業が私達から隠蔽し続ける情報という不可知要素でもあります。このような不可知を直視し続けることは容易くありません。私達が知り得る事象の多くは数値という精密な言語で表記されています。数値によって得る知識は必要ですが、それだけは不十分であり、限界があり、時には知識を近寄りがたいものに変えてしまいます。

アートは万能薬ではありませんが、予測のつかない大きな不確実性と共存する手だてを示してくれ、不確実性の中を前に進むべき道筋を想像する糸口を見いだす助けをしてくれます。アートは、数値に人間性を加味します。そして統計上の人口数値も、実は人間が存在するコミュニティーであるのだということを忘れないようにと注意してくれます。共感という扉を開け,「むこう」がそれほど遠くないと示してくれます。「かれら」が実は私達であることを。

このシンポジウムとアート・エキジビションが提示するのは「遥か向こうの抽象的な」問題ではありません。これは個人の問題なのです。私達はこの問題を私達個人の問題として引き受けるべきなのです。 (translation by Migiwa Orimo)

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s